五月中旬病

いつ頃からかわからないけれど、多感な日がある。多分中2くらいからかな、

地下鉄やバスで見かける人達、スーツ姿でお疲れのおじさん、(あの人は家庭を持っているのかな、どんな人生なのかな、その人生を見てきた親はどう思ってるのかな、その親に感謝はできているのかな)、高校生カップルをみても、楽しそうでいいんだけど、その別れた後の彼女さんの顔は曇る。ケータイを見る。

 

感覚とか感情みたいな無形状の物は原型を留めない、楽しいとかいう感覚すらも寝てしまえば忘れる、悲しい、つらいでさえ、とても大きなものではなければすぐに消える。

 

先程のおじさんのような方も実はとても家庭円満だったりする、明るそうな人は実はとても無口だったりする、逆もある。

人は見かけで判断してはいけない、これは確かに生きてきた中で得た情報。一見性の情報には疑いをかける必要がある。

 

ならば好きとか嫌いとかも一見性のものだし、いい所とか悪い所とかを見つけれていないのだけかもしれない、ならば、好きから嫌いになったり、嫌いから好きになったりする。人間はとても柔軟かつ軟弱じゃないのかな、

 

僕だってどう見られてるかはわからない、主観を放棄して客観的になることなどできない。

感情は常に残らない。ならば幸せを求める僕たち人間は幸せになれない、生きている価値ってなんなんだろう、愛する人?そんなこと言わなくてもわかる、それは一時的な感情に過ぎない。

 

けど確かに一時的ではあるが連続は可能である、幸福感を断連続的に繰り返すのは可能である。その為に幸福と認識できるように辛いことだって必要である。こんなことは一年前までは思わなかったかもしれない。思えるようになったのも、1年間で色々経験したからではないか、?よく分からないけど、この経験が「幸福である」ということではないのかな、

 

こんな日はとりあえず寝ましょう、